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概要

あまりにも当たり前過ぎて・・・

とびら  お知らせ  ホーム    ■概要  
 何も特別のことはしません。極当たり前に自然界で行われていることを、少しだけ無駄を省き効率化します。すると自然状態では通常は見られない一見、不可解な現象が起きます。地上からは作物と僅かな雑草(作物の近縁種)を残し、眼に見える他の全ての生き物が消えます(水田では雑草が全て消える)。いわゆる単一・一様化(モノカルチャー化)です。
消えた生き物の中に害菌、害虫、害鳥・獣も含まれ防除は無用。当然、それに拮抗したり依存関係にある益○○も消えます。自然の法則上起こる一様化と無防除化は一つの現象の別々の側面。生物多様性には二つの側面があり、地上の単一・一様化は地下の富栄養(バイオマス増大)・多様化の反映であり、逆に熱帯雨林などの地上の多様化は、地下の貧栄養・一様化の現れなのです。
全文を読む 農耕地では自然とは正反対に見かけは多様性があってはなりません。トンボやツバメが飛び、これが自然なんだと単純に喜んでいては真の自然農法、有機農業を語ることはできません。農耕自体が不自然なもの、如何にして自然状態ではあり得ない「反自然ではない=命を生かす(表現する)仕組みに反しない」ことを起こすかです。
書籍やインターネットを幾ら調べてみても、こゝ「炭素循環農に書かれている基本的原理は見つかりません。見つからないからこそ、このホームページを立ち上げたのですから。
人(書籍、先輩)ではなく、自然=仕組み=法則性が指導者。詳細な仕組みは直接、作物や虫に教わっています。また、自然農法を知らない者、新しい者(後輩)が実際に答えを教えてくれる先生です。全てが逆。既存の知識は説明のためです。
 詳しく知りたい方は、ここは飛ばして 次へ(基本へ) → お進み下さい。概略だけ知りたい方は、以下だけお読み下さい。
なお、ここは純然たる「」のための「農」のサイト。全ての「農法」の本質を理解するためのサイトです。自然を過剰に美化や絶対視している、自然崇拝者・人為行為過敏症の場合、アレルギー症状が・・・^^; 。
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農法以前

 環境問題や新しい農法(自然・有機・循環・持続型・微生物・無施肥など)に関心、あるいは疑問があるからこそ、ここを訪れたのだと思います。先ず、他との違いを明らかにしておきます。何事にも「やってはならないこと」、「やらなければならないこと」があります。また「やっても良いこと」、「やらなくても良いこと」もあります。ところが、施肥・防除の呪縛から逃れた「つもり?」の、最も先進的と思われている農法ですら「やらなければならないこと」が“ある”ということに気付いていません。その「やらなければならないこと」をやれば、人々の健康や環境保全に、如何に甚大な影響を与えるかを明快に解き明かします。

農法云々という前に常日頃、皆さんが何気なく取っている行動から見直してみます。そこには何とも不思議な現象が・・・(笑)。「新しい農法を求め、一生懸命・努力・研究・苦労を重ね○十年」という、その道では知名度の高い立派な方々(指導者)がおられます。そして、その技術を伝えようと頑張っておられます。また、それを見習おうと多くの方が日夜努力を重ねています。
でも、何処か変と思いませんか?。彼らは「誰も真似のできないことを成し遂げた」からこそ有名なのです。つまり凡人に彼らの真似はできません。見習うことは諦めましょう。たとえ指導者(人)から答えを貰っても、それは「人の脳(悩)法」の答えです。
全文を読む そして、「自然の理=自然が“いのち”を生かしている仕組み」に逆らっている分「一生懸命・・・」しなければならず、反自然の分がマイナスの現象となって現れているだけのこと。自然に対しての努力や苦労は理に沿っていない証です。農業はスポーツじゃないんです。既に先輩がそれを証明しているのに今更、同じことを繰り返してみても徒労以外の何ものでもありません。
過去の全ての農法は人々の長年の経験を元に「人が組み立てた」知識・技術体系。そのため全て、人の側に基準を置いた「人脳(悩)法」であり、自然の側に基準を置いた「自然農法」ではありません。それ故に知らずゝの内に「理」に反してしまっているのです。「理」に従えば誰でも、何処でも、何時でも、無理なく、楽して目的を達成できます。
 自然の理=自然が“いのち”を生かしている仕組み:
農業・農法以前。科学以前(現在の)。宗教以前(天使とか菩薩と表現されている。般若心経はその解説書)。「物質以前の元の元=“非物質エネルギー”」の世界の仕組み。これを知った故にルドルフ・シュタイナー(バイオダイナミック農法)や岡田茂吉は自然農法に辿り着く。しかし、農業は「自然=物質世界」が相手、この世界に表出した事象を通し、「人の側ではなく、自然の側から見た理」を説いている。

このサイトにある「基本(自然の法則)通り」にやれば、作物は勝手にできてしまいます(既に実践者により証明済み)。ところが何時まで(3年以上)経ってもできない方がいます。「一生懸命・努力」の方です。当人は「ここに書いてある通りに」やった“つもり”。
そして炭素循環農法より「上を目指して」と・・・。しかし基本から逸脱。単に表面上の形だけを真似て「やってはならないこと」に腐心しています。その結果は皮肉なことに、自身では解決できず「研究・苦労」の末「各種の障害の見本市」状態。当人は、この農法の実践者と思って(称して)いても“似て非なるもの”です。

「上を目指して」と思うことは、大いに結構。でも、自然の側ではなく、己の思いに囚われ、サイト案内(心得)基点(視点)の意味が全く理解できず、眼前に現れる事象に翻弄されています。大変ありがたい方(答えを貰える反面教師)ではありますが、本人の苦悩はいかばかりかと思うと・・・。

また、主に農業初心者や自然猿真似、有機堆肥農法の経験者に見られる「ごちゃ混ぜ」も同様。本人は良いとこ取りのつもりなのでしょうが、勝手な組み合わせは本農法(自然が“いのち”を生かす仕組みの応用)とは無縁。関心を持つのは結構ですが「生兵法は怪我の元」分かったつもりにならないことです。
自然は、それほど甘くもないし曖昧さもありません。「やったつもりになるな!。自然を嘗めるな!。」自然は法則でしか動きません。そして、解り始めると「解っていない」ということが分かり始めます。
農業初心者で、右も左も分からない内は致し方ありませんが、何故か広い意味でのオーガニックに関心ある者のほど“自然に対する甘え”がみられます。おそらく「解ったつもり」の傲慢さからでしょう。
 
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過去の農法は「殺し農法」

 百姓は、太陽と土と空気と水さえあれば植物は育つということを、何時の間にか忘れてしまったようです。そして「虫が虫の餌を、菌は菌の餌を食べるのは当たり前だ」ということを見落としています。
自然状態で虫が緑を食べ尽くすことはありません。菌が人や動植物を食べ尽くすこともありません。虫(菌)は「虫(菌)の餌」以外のものは食べない(られない)からです。

自然の仕組みを忘れ、人は害虫(菌)という幻に怯え、それらを殺し、つい数十年前までは人の口に入ることのなかった「虫の餌」を横取りして食べることが、異常であると気付かずに、平気で食べるようになってしまいました。科学的との美名?のもとに、何時の間にか、当たり前のことを当たり前と思わなくなってしまったのです。
全文を読む 土に「有機物=有機炭素化合物」が不足すれば作物は生育不良になることをプロの農業者なら誰でも知っています。でも、有機物を必要としているのは土壌中の微生物であり植物ではないということは、知っていても意識されていません。
その証拠に、有機物(炭素)を最も適した状態で土壌中の微生物に与えていません。適した与え方をすれば、どのような仕組みで何が起こり、人々の健康や地球環境に、どんな影響を与えるか、原点に返って見つめなおしてみる必要があるのではないでしょうか。

何もいまさら、改めて「炭素循環」などと言わなくても、自然の野山や農業現場では、昔から当たり前に行われていることです。しかし、意識されていませんから非常に無駄が多く、炭素不足のため養分循環が円滑に行われていません。
それを補おうと施肥に頼り、土壌(微生物成育)環境を破壊。養分バランスを崩し「人の食物」を作る筈が、実は「虫の餌」を作っているのが、堆肥・天然農薬の有機農法や化学肥料・化学農薬の慣行農法であり、これは「施肥・殺し農法(奪い合い・殺し合い文明からの派生現象)」です。

そして、過去の自然農法(自然の猿真似農法や一切の資材を否定した断食農法)も、旧概念(人の側から事象を捉える)から完全に脱却しているとは言えず、殺し(排除)が行われる限り、たとえ有機・自然農法と称していても、慣行施肥農法と同質であり「自然風施肥防除農法」と言えるものです。
虫(菌)が「何のために」「どのような物を食べるか」理解すれば、虫に食べられない作物(人の食物)を作ることは、それほど難しいことではありません。寧ろ非常に簡単で「何故こんな簡単なことに、今迄気付かなかったのだろう」というのが実践者の感想です。
 
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自然は人に何も要求しない

 これまた、当たり前のことですが無施肥と言っても、植物が育つのに必要な養分や量に違いがあるわけではありません。実際に無施肥・無農薬で作物を作っている者は多数います。でも、詳しい養分供給の仕組みまでは、理解されていないのが実情でしょう。
理論的裏付けの欠如から手探り状態で多くの試行錯誤を繰り返し、安定した生産体制に至るまで遠回りをし、多くの労力と時間を費やしています。そして、多種多様な農法が提唱され、また実践されています。農法は農家の数だけあるとも言えますが植物が育つ基本的な仕組みは一つ。その仕組みに沿わなかった時、作物は虫の餌となります。
全文を読む 虫の餌か人の食物かは、養分の供給の仕方(土壌環境や土壌生態系、養分バランスを保てるかどうか)で決まり、理論さえ分かれば無駄な苦労をすることはありません。単純に考えて自然状態で虫に食われない植物があるのですから、それと同じ状態(仕組み)を再現すればよいわけです。
同じと言っても、何も全てを同じにする必要はありません。時計の針は逆には回りません。文明人が今更、サルや未開人の真似をしても始りません。見かけではなく最も基本的、あまりにも当たり前過ぎて誰も気付かなかった「炭素」の循環の仕組みを同じにすればよいだけです。

要は自然の仕組みを知り、その仕組みを最大限に活かし作物を生かすこと。仕組みさえ活かせれば資材を選びません。反発を承知であえて言います。化学合成、遺伝子組み替えか天然資材、非組み換えかは、本質的問題ではありません。化学、天然に関わらず「肥」と「殺し」は御法度。肥を与えた結果が殺し。問題の本質は「殺し」=「肥」にあるのです。
 
「肥」は人の勝手な思いであり、自然の要求ではありません。いったい、「肥」という概念は何時の頃からあるのでしょう。人が耕作を始めた千、万年?の昔からでしょうか。
現代農業の基礎となる「無機栄養説」を説いたのは「農芸化学の父」と呼ばれているリービッヒです。彼はもっと重要な(凄い)こと(「窒素無用論」「腐食の栄養略奪論」)を説いているのですが現在に至るまで、それを誰一人理解・評価するどころか逆に誤りとしています。

自然は人に何も要求しません。人が「肥やす」という傲慢な思いを捨て、真摯に自然と向き合ったとき、初めて自然の真(本来)の力(意志)が見えてきます。
そして「防疫」という概念から解き放たれたとき、自由を与えられます。自然農法は「自由農法」でもあるのです。自然の意思と人の思いが合致した時、自然は人に全てを与えます。又これを人々が理解した時「与え合い生かし合い文明への転換」を意味します。
 
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農業と炭素循環

 炭素循環は生命体の最も基本的な現象です。生き物相手の百姓が基本を忘れては「命」ある作物を育て、人々の「命」を守ることはできません。食物連鎖と呼ばれているのは生命連鎖であり、食とは命を食べ命を「循環」進化させることです。鉱物(無機物) → 微生物 → 植物 → 動物 → 人、と命が循環、進化するわけです。
「人」は命の進化の最終形態であり、現時点で最も完成度の高い、自然の作品。物理法則に「エネルギーの保存則」というのがありますが、物だけにそんな便利な?法則が働くわけではありません。これは「無量」の世界の仕組み。「“いのち”」は初めから“いのち”そのものであり見かけが変わるだけ。“いのち”がいきなりできたり、無くなったりするのではないのです。
全文を読む 生命現象とは“いのち”が見える“かたち”になった状態であり、見える部分は見えない部分の結果として現われるに過ぎません。全てが“いのち”です。「E=mc2」の E に相当するのが「“いのち”」であり、mc2 に相当するのが「生命(体)」。見える“いのち”(生命体)にとって、水(酸素)を除けば炭素が第一の必須元素。炭素の循環量に応じて他の元素(養分)も循環します。炭素循環=生命。と言っても良いでしょう。

「必須アミノ酸の樽(一番短い樽板までしか水は貯まらない)」という考え方同様、短い樽板の所までしか他の養分も有効利用されず(最小養分律)、樽板の高さが揃わない場合、単に無駄になるのではなく邪魔になると言われます。
有機物は炭素骨格を持ち、水や炭素は樽の箍(たが)や底板のような物。人の思いで必須養分をP,N,K,他、と勝手に限定し、土壌分析の結果だけで養分の過不足を判断しようとすることが間違いの元です。土壌分析はスチール写真のようなもの。施肥農法では役立っても、常に循環している瞬間の状態は、循環農法では無意味です。
養分は常に微生物等により固定されたり可吸化されています。土は生きています。人は地球の自然、生態系の中で、地球は太陽系・銀河系・宇宙の中で生かされています。全てが必須なのです。
   
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炭素循環農法の概要 

 自然が生き物(“いのち”)を生かす仕組みを理解し、農耕地に於ける炭素循環を人為的に効率化。「炭素循環量」を森林並か、それ以上にすることにより結果として無施肥・無施水・無防除になってしまう、農法以前の仕組みの説明です(無施水や無防除・無農薬が目的ではない。でも結果的に真の自然農法)。
 無施水:
作物に対しては最小限度の水でよい。但し乾燥地(期)には、微生物に対して必要量の水を与える。水不足で土壌バイオマスが減少すると養分不足やバランスの崩れから各種の障害が現れる。

慣行農法や有機農法の全ての障害は施肥にあることを明らかにし、植物が土壌微生物との共生関係を保ちながら進化した環境、即ち「微生物の作り出す養分バランス」を土壌中に再現し保つことにより、作物にとって過不足のない養分供給を可能にします。バランスは人が「とる」ものではなく、「とれる」もの(自然に均衡するもの)なのです。
環境汚染の原因にもなる化学肥料、堆肥(ボカシ)も無用。逆に過剰施肥による汚染地を積極的に浄化。無施肥であっても慣行農法以上の収量が得られます。
 障害は施肥にある:
預金残高ゼロでも充分な日収があればよい、無施肥は日々の利益での日当支給制。施肥は、働く前に1年+30%(過剰施肥分に相当)を上積みの給料支給制や、発注時に工事費などを130%払うのと同じ。たとえ数回の分割払い(追肥)でも前払い。何が起こるか考えるまでもない。
 慣行農法以上の収量:
現時点では、植物体そのものを利用するもの(野菜類やサトウキビなど)は慣行の2〜3倍。種実を利用するもの(穀類、果樹、果菜など)は1.5倍以上としか分かっていない。

糸状菌のコロニー
堆積した落ち葉の一次分解者、糸状菌のコロニー“はんぺん”の断面(画像下部)更に詳細な説明と写真
 自然農法や有機農法は難しいと言われますが、それは仕組み(理論)を知らず余計な事をしているからです。慣行と自然農法の実際面での相違は、施肥と防除の有無。無施肥の自然農法が成立する基因は、土の「清浄度=生物化度」と「肥沃度=進化度」の二大要因。施肥農法では施肥量が増すほど清浄度が落ち(土壌バイオマスが減り)、バクテリアが主になり、二つの指標は相反。無施肥なら相反しません。
方法は、いたって簡単。土壌中での有機物の分解は、C/N比40(炭素比=炭素量/窒素量)を境に、以下なら最も下等なバクテリア(真正細菌)、以上なら土壌微生物中では最も進化の上位にいる糸状菌(菌類)が主に分解を行うという特性を応用します。
 主に分解を行う:
分子生物学的分類では生物を三つのドメインに分類している。1.真正細菌(大腸菌、放線菌、藍藻などの所謂バクテリア)、2.古細菌(好熱菌、好塩菌、メタン菌など)、3.真核生物(菌類、動・植物など)。微生物の内、菌類(カビ)は真核生物(人類と共通の祖先を持つ我々の仲間)。最も下等な細菌類による腐敗分解の結果生成される成分(メタン、水素、硫化水素、アンモニアなど、原初の地球環境中に充満していた)を利用するのが古細菌群(真核生物の祖先と考えられている)。土壌環境次第で主役が入れ替わるため、実際には全て(3ドメイン)が必要。

自然と同じようにC/N比40以上の、難分解性・高炭素有機物(生の雑草・作物残滓・緑肥作物や、C/N比調整・醗酵処理=キノコ培地化した木材チップ等)を土壌中に入れるだけ(耕起・混ぜ込み=炭素循環の効率化)。自然林野では落ち葉や朽木(C/N比40以上)を菌類が最初に分解し、細菌類は二次・三次分解者です。
全文を読む 自然林野での分解過程の再現。高C/N比有機物は土壌中の糸状菌が一旦ガードしてから、ゆっくり発酵分解する(食べる)ため、生の有機物の急激な腐敗分解による窒素吸収阻害物質の生成・吸収活性低下(窒素飢餓)現象は起きず生のままでの投与が可能。省力・省資材=二酸化炭素排出抑制・省エネ等で環境負荷軽減。更に、腐敗による環境汚染(腐敗成分や無機化した窒素=硝酸や燐による富栄養化)も解消します。
 省資材:
必要な有機資材量(現物)/年≒その地に於ける潜在自然植生による生産量と同等≒施肥栽培における堆肥推奨量に必要な資材量。作物にもよるが施肥栽培での堆肥推奨量は最低で10t/ha、資材量はその倍(堆肥化歩留まり:完熟1/3〜未熟2/3)。ある有機農法ではその20倍(堆肥200t/ha)を使う。

炭素の供給量に応じ微生物相は豊かに、バイオマスは増大。豊かな微生物相が有機物の処理能力を更に高め、微生物から供給される養分だけで、施肥栽培以上の生育に必要な養分供給が可能になります。
もう、お気付きでしょう。従来より土壌改良と呼ばれている、よく知られた技術です。化学肥料が登場する以前には、極当たり前に行われていた、里山の刈り柴を入れる技術と何ら変わりありません。違いは、自然の理(仕組み)を熟知して無駄を省き効率化、マイナス現象を発現させないか否かだけです。

糸状菌(菌類)は動物(植物・動物の二大分類)の仲間。植物により一旦、生かされた有機物を餌として与え「飼う」のです。堆肥化せず生で与えると従来の堆肥を使う農法の1/3〜1/10程度の有機物資材で足り(基本はその圃場内で生産、イネ科作物は残渣のみ)、省力・省エネです。
堆肥化や化学肥料を止めれば、二酸化炭素の排出量を大幅に削減できます。堆肥化に伴う放出分は二酸化炭素総排出量(日本)の約3.5%。放出分をバイオ燃料化すれば倍の7%のCO2削減。
これに、肥料=工業的窒素固定(世界の全エネルギー消費の約2%)。更に環境浄化、修復・保全に関わるエネルギー損失(耕作自体が環境保全)なども考えれば、二酸化炭素総排出量の10%前後?の削減は可能と推定されます(温暖化と二酸化炭素排出との因果関係には疑問もあるが)。

微生物は使える炭素(有機物)がある限り、遊離(無機化)し垂れ流し状態の、過剰な肥効成分(無機状態の窒素や燐など=使われていない)がなくなるまで増え続け、結果的に土壌が団粒構造(宇宙の基本的進化形態)になり、土壌を丸ごと醗酵、清浄化します。この際、炭素資材の効率的利用により「腐植=汚れ」が減り本来の土の色に近づきます(特に水田では顕著)。
 腐植=汚れ:
有機物中の難分解性のリグニン等が酸欠条件、腐敗等により有効利用されず土壌粒子と結合、黒色を呈する。キノコ菌はそのリグニン(腐食)を容易に分解、リグニン分解酵素を持っているのは白色木材腐朽菌=キノコ菌のみ。この菌が出現したため石炭紀が終焉(約3億年前)したといわれる。

作物に必要な成分を生きた状態に(有機化=生物化)しておけば、たとえ必要量以上あっても障害はありません(実際の全窒素は慣行の半分以下、実測値は施肥栽培における無機態窒素適濃度の1/40〜1/180)。これは痩せた土手土と同程度(0.1〜0.2mg/100g)の硝酸濃度。この数倍以上だと虫に食われます。
土自体には植物が直ちに使える肥効成分がないため、硝酸の過剰吸収が起きません。また、生きていれば無機化(腐敗分解)せず流出するどころか大気中から常時、炭素や窒素を新たに固定、肥沃化します。

そのため養分循環量が増え外部から一切資材を持ち込まなくても施肥栽培以上に作物は育ち(実際例は1.5〜3倍)ます。土壌の清浄度と肥沃度(養分供給力)を保てば、施肥による諸問題(有機物資源や化石資源の浪費、環境汚染・破壊、連作障害、作物の質の低下など)も起きません。
 連作障害:
=施肥障害。無施肥では逆に、転換初期には共生微生物を育てるための「土壌の順応化=連作」が必要。作物にもよるが3連作ほどで施肥栽培並みの収量になる。

たとえ持ち込んでも、作物の窒素吸収量の1/10〜1/3程度。つまり、作物が使う窒素は土壌中に常在していません
他の無機成分(可吸態・不可吸態)も微生物が一旦取り込み可吸化・有機化、バランスを整えてから作物に供給します。植物に必要な成分は、微生物が使え(食べられ)さえすればよいのであって、植物にとって可吸態である必要はない(あってはならない)のです。

病虫害や連作障害等は、土壌中の有機成分の腐敗・分解の結果、産生された腐敗物質や無機化した窒素(アンモニア態+硝酸態)、肥料として投入された無機態窒素が直接の原因。間接的には、腐敗による土壌の物理性の劣悪化(団粒構造の崩壊→緻密化→腐敗硬盤層形成等)や、それに伴う生物性、化学性の悪化等です(硬盤=耕盤=時には鋤床とも)。生物性、化学性が良ければ機械的な踏み圧や降雨では土は硬化もしないし、すぐ戻ります。
有害成分の発生や、無機成分による養分バランスの崩れがなく、健康に育った作物は、虫や菌の活躍の場ではないため寄り付かず、無防除が可能。そして、過剰な硝酸や腐敗物質を吸収しない作物は、味も日持ちも良く(バクテリアが食わない)、人畜の健康に良い、本来の人の食物となります(炭素循環農法の野菜の硝酸イオン濃度)。

炭素循環の円滑化により団粒化した土壌は、通気性、透水・保水性、保温性、養分保持力が改善。農耕地となる以前の森林・原野が持っていた以上の、環境浄化力・保全力を取り戻すと同時に、安全で美味しい農産物の生産が可能、生産性も大幅に増大します。
 
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先駆者

 「自然農法」はルドルフ・シュタイナー岡田茂吉が説きました。また、高炭素資材の活用による高い生産性を証明したのは「躍進微生物農法」の創始者、島本覚也。最大の啓蒙者は福岡正信です。彼らの功績と先進性に敬意を表し、ここに明記しておきます。しかし、理論的な解明が為されていず、仔細過ぎ呪術的、精神論に片寄り難解、施肥・施水・防除の呪縛から逃れられない、自然が解らず哲学に逃避など、矛盾や無駄もみられます。

重点の置き所は違っても、彼らは全く同じことを説いています。自然は一つ。当然、説くことも一つ。自然農法も一つ。にも拘わらず、彼らの説いたことから何故、多くの自称自然農法が派生したのでしょう。シュタイナーや茂吉は一般の者には無い特殊な能力、いわゆる霊能力を持っていました。そのため、彼らの説いたものには一般の者には絶対に理解できない部分があります。
分かっている者(彼ら)の悪い癖で、往々にして「その(霊)世界の話」を織り交ぜて語ります。分かる者にとっては自明の理。しかし、「物の世界」しか知らない者に「こちらの言葉」だけで的確に説明するのは無理。そもそも、あちらの世界は「物の無い世界」「言葉の無い世界」だからです。
全文を読む 結果として、同じことでも説明者により表現が変わり、一般の者には別のものとして受け止められます。すると伝達を繰り返す内に、あたかもDNAのコピーミスで細胞が癌化するように、自然農法DNAが正確にコピーされず異常化、増殖します。茂吉の自然農法とシュタイナーのバイオダイナミック農法が別物と思われているのがその好例。
意識世界に「在る」のは、自然とその仕組みの元になるエネルギー、そして天の理(意識世界の法則)。これは実際の栽培面では、直接使えない不要な知識。選り分けて捨てることができない限り実践面では障害になります。分かったつもりで勝手に解釈。それに拘るため、生産性が低く、何時まで経っても漢方的防除を必要としているのが「過去の全ての自然農法=自然風慣行農法=自然猿真似農法」です。

これらの農法(癌化=自己免疫疾患=内部から崩壊)は、異常を警告している害虫、病原菌(外部からの崩壊)と同じ重要な役目。自然の持つ処分・浄化作用ではありますが、放置すれば食糧の絶対量不足、低品質(虫の餌、野生化)など、正常化させなければ命取り。対処法は害虫(菌)と同じ。意識の土壌改良(場の改善)により、これも無防除で消えてもらわなければならないものです。
炭素循環農法は、これらと関係なく(惑わされることなく)一百姓の実践の中から得られたもの。しかし、単に経験だけに頼らない、理論に裏打ちされた一連の技術体系です。結果的に、彼ら先駆者の理論(極々少数の者以外にとっては未知)の正しさを立証、再確認することになるのですが。
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虚心坦懐