参考資料 11 栄養説の変遷
リービッヒは無機栄養説を唱えただけでなく、窒素不要論、腐食による栄養略奪論も説いた。
その内の無機栄養説を正しいとし、他の論を間違いとしたのが、そもそもの間違いの元だった。
施肥の起源
人が農耕を始めてから約1万年。そして、約5000年前から人や家畜の糞尿、山野草、草木灰、動植物の遺体やこれらを腐熟させた堆肥などが使われていたと考えられている。堆肥についての記録は B.C.9-8世紀頃から見られる。
アリストテレス(Aristoteles B.C.384-322 古代ギリシャの哲学者)は、「植物は死ぬと腐植になり肥料となる。植物は養分を土の中の腐植様の基質から根によって得る」との理論を唱えた。
大カトー(Marcus Porcius Cato Censorius B.C.234-149 古代ローマの執政官,政治家,文筆家)は、「良い農業は、良い耕耘、良い家畜、良い施肥」と述べている。
古代ローマ人は、B.C.2-1世紀頃には輪作や緑肥、石灰施用の知識を既に持っていた。
腐食栄養説
ヨーロッパでは16世紀から、植物の栄養分を突き止める実験・研究が盛んに行われアリストテレス以来の腐植栄養説が主流を占めてきた。
1590年頃、サハリアス・ヤンセン(Sacharias Janssen, 1580年頃-1638年頃 オランダ 眼鏡職人)は父親のハンス・ヤンセン(Hans Jansen)と共に、2枚のレンズを組合わせた顕微鏡の原型を発明したとされる。但し発明者については緒論がある。
1674年、アントニ・ファン・レーウェンフック(Antonie van Leeunhoek 1632-1723 オランダ 商人,役人,科学者)は自作の単レンズ顕微鏡で微生物を発見。
腐植栄養説の代表的支持者アルブレヒト・テーア(Albrecht Daniel Thaer 1752-1828 ドイツ 医者,農業研究・経営者)は「土壌の肥沃度は完全に腐植に依存し、水とは別にそれ単独で植物に養分をもたらす。腐植は生命の産物であり、生命のひとつの状態でもある。腐植なくしては如何なる個別生命も考えられない」と述べた。
1800年頃の中央ヨーロッパにおける穀物収量は500〜1000(平均800)kg/haに過ぎず、種子が5〜6倍にしかならなかった(Hushofer,1976)。現在は約4.4倍の3500kg/ha(世界の全穀類の平均収量)。
腐食栄養説から無機栄養説へ
1804年、植物が光合成で水と二酸化炭素で有機物を作り出していることがニコラス・テオドール・ド・ソシュール(Nicolas-Theodore de Saussure 1767-1845 スイス)によって証明される。また、植物は無機塩類を吸収その溶液中でも育ち塩類は養分として不可欠。と主張したが「腐植説」も支持。
1840年、ユストゥス・フォン・リービッヒ(Freiherr Justus von Liebig 1803-1873 ドイツ 化学者)は、「腐植は水に溶けず腐植が殆どなくても植物は生育し、逆に土壌中の腐植を増やす。植物に必要な炭素は大気中の二酸化炭素、塩基は土から供給される」と述べる。
翌1841年、リービッヒは「最小(養分)律=植物は土壌中のカリウムやリンなどの最も少ない必須元素(無機栄養)が成長の制限因子となる」を提唱(分かりやすく図解したのがドベネックの要素樽)。この無機栄養説が現在の農学の基礎となっている。
更に、必須元素は自然(風化)からの補給だけでは不足するとし、骨粉と硫酸を混ぜた化学肥料の開発に乗り出した。
まだ、微生物による窒素固定が知られていなかった当時、リービッヒは「植物は窒素をアンモニアあるいは硝酸から得るが空気中からアンモニアを得られるので窒素肥料は要らない」と「窒素不要論」を唱えた。
更に、腐植栄養説に基づく従来の農業は、土壌中の栄養を略奪するものだ。「農業における真の進歩は厩肥からの解放によってのみ可能である」とまで極言した(腐食による栄養略奪論としておく)。
窒素不要論:
リービッヒは各地を旅する中で、窒素肥料を施用しなくても肥沃な土を目にした。
土壌中の栄養を略奪する:
彼は有機物を植物が吸収することは認めていた。しかし、殆ど腐食の無い土でも作物が育っている。また、自然の物質循環を重視、都市部での糞尿の集積による汚染や農村での地力の低下を警鐘していた。
窒素不要論の否定
1843年、(ローズ John Bennet Lawes 1814-1900 英国 農学者,過リン酸石灰の開発・製造者)は、窒素不要論を否定し、リービヒと10数年にわたる大論争を展開した。
窒素不要論を否定:
リービッヒの諸説に疑問を持ったローズは窒素肥料の効果試験を行い、厩肥を施用した区の収量は高いが化学肥料でもそれに劣らぬ収量が得られた。これをもって「リービッヒの窒素肥料不要説は誤りであり、厩肥と化学肥料の持つそれぞれの有効性は明らかである」とした。
19世紀半ば、ルイ・パスツール(Louis Pasteur 1822-1895 フランス 生化学者,細菌学者)は、自然界の物質変化に微生物が関与していることを証明。
1860年、ユリウス・ザックス(Julius von Sachs 1832-1897)が水耕栽培法を開発。窒素、リン、カリウム、硫黄、カルシウム、マグネシウム、鉄が必要なことを示した。
1877年、シュレシングとムンツにより、土壌微生物のはたらきでアンモニアが硝酸に酸化される現象(硝化作用)が発見される。更に、ロバート・ウォーリントン(英国)によって土壌中の有機物は土壌微生物によって分解され無機化することを発見。
新しい原理に基づく養分供給
1924年、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner 1861-1925 オーストリア帝国現在のクロアチア 哲学,人智学,神秘思想家,霊能力者)は、鉱物製肥料の使用を中心としたそれまでの農法を否定。自身の持つ特殊な能力から得た知識を元に、独自の調合材を使い自然(天体の運行=地球の運行)を基準に於いた、バイオダイナミック農法(自然農法)を提唱。
1935年、岡田 茂吉(1882-1955 宗教家,霊能力者)は、特殊能力により得た知識(神示によって知り得た唯心科学)を元に自然農法(無施肥)を提唱、その根本理念・原理を説く。
1947年、福岡正信(1913-2008 自然農法の啓蒙者)は、自然農法に打ち込み、粘土団子を提唱。自然農法の提唱者と勘違いされている。
1951年、島本覚也(1899-1974 酵素研究者,宗教家)は、天からの啓示を受け高炭素資材による高生産の栽培技術体系を確立。
新しい原理:
4人とも述べていることは一つ。だが、後に彼らに賛同し、関わっている者達の言動をみる限り誰一人、原理を理解しているとは思えない。
無機栄養、堆肥農業の破綻
1954年までには必須養分に微量要素(銅、亜鉛、マンガン、ホウ素、モリブデン、塩素等)が加えられ、リービッヒの無機栄養説を基礎とする施肥・施水・防除の現代農業が確立された。
1940年代〜1960年代にかけて、ロックフェラー財団が主導した緑の革命(Green Revolution 高収量品種の導入や化学肥料・農薬の大量投入、潅漑など)により穀物の生産性が向上し大量増産を達成。一時は途上国の飢餓を救い、無機栄養説に基づく農業の最大の成果とも言える。
しかしその一方、永続性がなく農地の疲弊・荒廃(塩化,表土流亡,砂漠化)などで生産性低下や環境汚染・破壊。在来品種の喪失、伝統的な自給自足農業や食文化、地域経済の崩壊。貧富の差の拡大、偏った資本の集積などを招き、最大の失敗との評価に分かれる。
1996年、遺伝子組み換え作物の栽培が始まる。世界の穀物作付総面積=7億haに対し、1億7千万ha(24%)、全農耕地の約10%を占める(2012 出典:アメリカ農務省及び ISAAA=国際アグリバイオ事業団)。
無機栄養説に基づく施肥農業による諸問題の解決手段との喧伝とは裏腹に、遺伝子の環境汚染や安全性。数年で抑制困難な耐性病害虫、耐除草剤雑草が出現。高価な種子の購入を余儀なくされた上に農薬、除草剤の多剤使用や大量使用。それに伴い経済性悪化、環境汚染。更に種子の多様性喪失・寡占化などで疑問視されている。
2011年末、世界人口70億人(国連「世界人口白書」 2011年版)。世界人口予測(中位推計値)は2025年 約81億人、2050年 96億人、2100年 約109億人(国連世界人口推計 2012年改訂版)。
現在(2013)、1960年以来、世界の一人当たり農耕地面積は半減(FAO)。全世界の農耕地17億ha(実質利用面積14〜15億ha)の約40%で土壌の荒廃が深刻な問題となり、農業による水汚染・枯渇も深刻化している。施肥農業、過放牧、気候変動などにより、地球の陸地面積の1/4が砂漠化の影響を受け、10億人(総人口70億人)がその影響下にある。
その主因となった無機栄養主体の慣行農業は、非永続性から既に破綻状態。その代替として主に堆肥による有機農業を模索。急速に増えはしたが未だ、世界の全圃場面積の僅か 0.85%に過ぎない(圃場面積 3,700万ha Willer,Helga & Lucas Kilcher 2011)。
有機農業は慣行の欠陥を多少は軽減する。しかし、それと引き替えに低生産・低品質となる(34種類の作物の平均収量は慣行の66% Seufert V.Ramankutty N. & Foley J.A. - Nature 2012)。
施肥栽培の原理上、今以上の生産性向上は望めない。この収量で全面的に有機農業にした場合、他の要因(気候変動や食の変化など)を無視して2050年には2.1倍、2100年で2.4倍の面積が必要(人口推計値:中位で計算)。現行の有機農業(過去の技術)では全世界の食料を賄うことは到底無理。これも既に破綻してる。
間違いの元(全部が正しい)
正誤(結果)は、その「場」の条件次第で如何様にも変わるもの。リービッヒの「無機栄養説」及び「窒素不要論」「腐食による栄養略奪論」は三つとも結論は正しい。但し、無機栄養説は施肥条件下に於いて、窒素不要論と腐食による栄養略奪論は無施肥条件下に於いてのみ成立する。
結論は正しい:
しかし、説明はおかしい。現在では植物は、低分子の有機物を根から直接吸収でき有機成分だけでも、無機成分だけでも育つことが知られている。しかし当時は、まだ微生物の窒素固定や、植物の有機物の吸収・利用が分かっていなかった。
ローズ以来、窒素不要論と腐食による栄養略奪論は間違いとし否定されている。その言い分は、「リービッヒは実験室の実験と理論を重視、農業現場の観察力は不足していた」、「堆肥の重要性を見抜けず、堆肥や腐植の持つ機能を正しく理解・評価できなかった」等だ。つまり「お前はバカで俺は利口だ」と皆で言ってるわけだ。そして、これは現在も続いている。微塵の疑いも持たれずに・・・。
だが、リービッヒは瞠目すべき観察眼、洞察力を持っていた。観察力、理解力が欠けているのは、一体どちらだろう?。科学は多数決で決めるものではない (^^)。
リービッヒ、ローズとも現れた事象(事実)を根拠にしているだけで、法則性も見いだせず理論的根拠もなかった。おかげで?十数年も論争できた(だが論争からは何も生まれない)。
これは今も全く変わらない。ただ信じているだけ、つまり「腐植・施肥信仰(その一例)」なのである。信仰は自由、それに対しとやかく言うつもりはない。しかし、信仰では農学(科学)ではない。信仰になてしまった原因は場(次元)違いが元。そして間違いの元。
肝心なものが抜けている
明確な法則・理論の提示もなく、闇雲に事例(試験結果)をどれほど並べてみても、科学(真実の探求)にはならない。自然の事象を観察し、洞察力を働かせ法則を見付け、理論化・体系化。実証・論証、事象を再現して始めて科学と呼べる。農学には肝心な法則が抜けている。
農学には肝心な法則が
農業は厄介なことに命(生命体)を扱う仕事。見ることのできない“いのち”が関与している。“いのち”を表現(具象化)したものが生命体。“いのち”の属する世界には法則がある。そして、その法則がこちらでも働いている。
「あちらとこちら=あの世とこの世」に同時に働く自然の法則の問題故に、自然の側に基準を於いた農法の提唱、技術獲得に、あちらをカンニングできる霊能力を必要とした。カンニングさえできれば良いわけでシュタイナー、岡田、島本とも説いただけで実践者ではない。
現在でも「植物の有機成分の吸収は僅かしかない」「微生物による窒素固定だけではN必要量を満たせない」と言われている。これは単に、有機成分の吸収や微生物による窒素固定を過小評価しているといった次元の問題ではない。
良識(常識)のある科学者なら「場」の違いを無視しての評価はしない。正反対の答えが出たら正反対にしている条件(場)=別の次元を先ず検討するのが常識だろう。ところが学(のある)者の悲しい習性?、自分の持っている知識と照合しただけで結論を出そうとする。
言い方を替えれば「基準の置き所をこちらからあちらに」(リービッヒの場合は施肥から無施肥に)移す。それをせずに評価すればトンデモと同列。リービッヒに対する批判・評価は、肝心なこの常識の欠如の結果と言える。
トンデモ:
似非科学。殆どは場違いから来る間違い。自説(多くは?オカルト系=意識次元)を違う場(物理次元)の理論で説明しようとするために起きる。それを批判すれば批判する側も同じ過ちを犯すことになり、トンデモの合唱になる。後者は理工系が嵌まりやすい(テレビでトンデモぶりを披露しているO教授などが好例?)。
もう、知らなかったことに・・・では通らない
無施肥条件下でなら極限近くまで土壌微生物を増やせる。それだけで施肥の2〜3倍もの収量(必要窒素の固定)を上げられる。更に、それと連動して「農耕地の生態系が一様化し、無防除になる(防除の概念自体が消える)」。このような仕組み(法則)など、現在の農学では夢想だにできないだろう。
確かに、施肥農業の枠内での無施肥の研究は僅かだが行われている。しかし、無施肥農業という枠内での肥料や有機資材、その作用機序や作物の生理作用などの研究は全く行われていない。
当然、現在に至るまで、その知識と技術を誰も持っていない(技術だけなら島本覚也がいた)。微生物の窒素固定や植物の有機成分の利用は今や常識。だが、その基本原理やどの様になるかは誰も知らない。
技術だけなら:
既に60年以上も前に、島本覚也が確立、実証して見せた。しかし、理論がなければ(間違っていれば=施肥農業次元での腐植栄養説)どんなに優れていても一般から見れば職人芸。広がりはしないし農学で扱うこともできない。無理からぬことだがもしかして、農学関係者は島本を知らなかったことに・・・? (^^)。
何事も両面を知らなければ正確な判断はできない。生きている自然の仕組み(摂理)に則った農業は語れない。リービッヒの次元(視点、基点)は、施肥栄養説を基礎とする現在の農学より一つ上(多い)。施肥条件下のことだけなら現在の農学で間に合うが無施肥条件という次元が加われば、この様な仕組み(地下微生物相・量の極大化と地上生物の単一・一様化)を理解してからでないと、リービッヒを正しく評価できない(してはいけない)(資格がない)。
人は全く理解できないことに出会うと無意識的に思考外に追いやってしまう。「見なかったことにしよう、知らなかったことに・・・」である。思考回路のオーバーヒートを防ぐ自己防衛本能だろう?。
知らないことは考えようもない。批判者を批判しているわけではない。しかし、知らないからといって相手(自然)が変わってくれるわけはない。我が身(頭?)に影響ないとも限らない(^^)。知らないものを「捨てないこと」この肝心なコツをつかめていないのがあらゆる分野での場違い現象=災いの元(論争の元、究極は殺し合い=戦争の元)。
リービッヒは「農芸化学の父」と呼ばれているが「未来(本来の)農業の父」とでも改めた方が良い。
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