自然農法症候群不自然は自然の仕組み
こうなってからものを言え。それまでは病人のうわ言。
■基礎知識
■自然農法の理念と原理
■自然農法症候群
![]() 自然のままでは・・・見かけを似せても、自然の理(“いのち”を生かす)に沿うわけではありません。自然状態では「生と死」のバランスが、少しだけ「生」がプラスになるよう仕組まれています。このバランスを変えるのが「場(環境)」。これは自然が自ら変えようが、人が変えようが何の違いもありません。人が自然の理に沿わせれば不自然。でも、自然のままでは反自然(生かし方が不十分)。一見、矛盾するように見えますが、それが「いきもの」が自然の中で生きるということ。人であると同時にヒト、変えることは自然なのです。不自然は自然の仕組みの一つに過ぎません。 現在の地球環境は「いきもの」が作り替えてきた結果です。生きるとは、自分の都合の良いように「場」を変えること。どのように変えるかは、それぞれの「いきもの」の自由。ヒトも例外ではありません。 自然の摂理に従うということは、ただ単に、あるがままの自然を受け入れることではないのです。「場」を良くするのも悪くするのも、自由。生きるも死ぬも、生かすも殺すも勝手です。但し結果は、あくまでも自己責任。 自然農法とは、自然を人の、そしてヒトの都合の良いように、変えること以外の何ものでもありません。自然のままが良いのなら、中途半端な猿真似などでなく、いっそのことサルをやれば良いでしょう(やった人もいますが^^;)。 できもしないことを、何時までも夢みていても時間の無駄。サルにもなれないし、全人類を生かすこともできません。我々にあと、どれ程の時間が・・・。 診断基準
一生懸命、努力:
報道などでよく見られる職人、拘りの人などの名人芸の影響?。名人芸は「おお、すごい」と拍手を送って鑑賞するもの。素人にできないから名人芸、自分でやるものではない。芸人を志すなら別だが、決して真似をしない、怪我をする。 知らないからといっても無罪放免にはなりません。次項の1〜5が複数あれば要注意。それに加え、6〜7が一つでもあれば罹患していると思われます。8〜10は一つでも重症。下に行くほど、重度な自然農法の犠牲者です。
「自然・天然・循環」農法(栽培)などと言われているもの全てに、例外なくみられる共通の症状。尤もらしく、自然風にアレンジしただけで、実質は施肥・殺し農法の典型的な特徴。 ゴミ(肥効成分、腐敗成分)を拾わない。拾うための道具(資材)を使わない。そのための、知識も技術もない。それ以前に、何がゴミか、何故発生するかさえ知らないためです。
何がゴミか、何故発生するか:
自然そのものが生きている「もの」。その「いきもの」の機能体系から見れば、肥効成分や腐敗成分は、炎症時の膿(老廃物)。速やかに処分(無害化)しなければ重大な障害となるのは当然である。 過去は死、未来が生。拘りは「人本位」、過去(死)が基準。「自然本位」は、未来(生)が基準。これは、基準のおきどころが、知識や経験(結果)か、それともそれを生み出す仕組み(法則)かということです。どちらが基準たり得るか考えるまでもないでしょう。 過去は確定済み。未来は未確定。未来が現実化する時点での条件も未確定。未来には、これからできる(新しい)過去を創る(生み出す)仕組みがあるだけ。この未確定要素こそが進化(創造)の原動力なのです。 未だ決まってもいない未来が基準なら、決め付け(拘り)は起こりようもないのです。過去も未来も自然の内ですが拘りを捨てるだけで基準が自然の側に移ります。
過去も未来も自然の内:
この世は、縦(z軸,-z軸)、横(x軸,-x軸)、高さ(y軸,-y軸)で ついでだが、あと3つの次元(物性=物に付随するが物ではない)がある。先ずは「粒子性」物が形を持つ性質。二つ目は「波性」純度・濃度・密度(物理空間の密度=重力=あちらとこちらを繋ぐ根源の力)にも関連する。三つ目は物の色の性質「色性」(物質の根源の粒子クォークは色、光の三原色の6色で説明できる)。として間接的に、物質世界に作用している(光=電磁波は3つの性質を合わせ持つ)。現在の農業は、物質(死)の科学を基礎としているため「“いのち”(生)」が分からないのは当たり前。今までの自然農法も、その例外ではない。少ない次元から多い次元のことは一部しか分からない(扱えない)。未来次元を含めた科学でなければ「“いのち”」は解けない。 自然の理に沿った時、どのようになるのか(未来)を、実は誰も知らないのです。そこで人は、己の知識(過去の見聞や経験)を基に事象を捉え、法則とは無関係に己の脳(既成概念)を基準にします。各人・各様、捉え方が微妙に違い、頭の数だけ「自然風農法」が生まれます。 その結果、根拠のない身勝手な結論(自己中心の妄想)を導き出し、自然の理に反する「排除行動」をとります。排除=防疫・防除=殺し行為。何であれ排除をする限り、施肥・施水・防除の殺し農法と本質は同じ。 本物とは似て非なる似非自然農法。自然風慣行農法(猿真似農法)と呼ぶ所以です。自然モドキでは混乱しそうなので・・・(笑)。 このホームページは一応、農法と謳っていますが単なる自然の仕組みの説明(代弁)。それに対し罹患者は、土壌深部まで団粒化せず、虫や病気も消えない内に、己の頭で早計な判断を下します。 自他共に認めている?表面上の謙虚さとは裏腹に、身のほど知らずで、恐れを知らない、傲慢な自然無視。厄介なことに、無自覚から自己陶酔に陥り、この自己矛盾に気付きません。これは、見かけ(過去)の自然に対する依存症(中毒)です。 転換して何年経とうが、この動画のようになってから初めて、どうこう言えるのです。それまでは、何らかの判断を下せる域に達していません。また、2〜3m以上団粒化しても、中途半端なところで妥協をすると、そこで止まってしまいます。 これも、典型的な症例。それなりに作物はできますが、やはりものを言う資格はありません。
中途半端なところで妥協:
土は単なる無機物ではなく、植物や微生物、鉱物などが作っている生きている有機体。これを生(活)かし切ることが、生態系の頂点にいる人類の義務。一旦、どんなに良くなったように見えても土壌構造が未完成な(高度に団粒化が出来ていない)時に、高炭素資材を減らしたり入れなかったりすると、1〜3年で後退し典型的な似非自然農法の症状が現れる。成育速度、生産性が落ち、外皮が硬くアクが強く美味しさがなくなるなど、いわゆる野生化現象が起き、更に腐敗(菌や虫に食われる)など過去に逆戻りする。 予防と治療現時点で予防は殆ど不可能。重度の場合、治療も大変困難です。実際に営農(家庭菜園も含め)したり、農業関連の仕事や研究などに関わっている場合、その経験や知識が治療を妨げます。そのため、自然風農法の実践者の完全治癒は、何(十)年かかるのか見当も付きません。キチンとやれば、土や作物は一定のパターンで変化します。転換初期に他の方法との比較だ、テストだなどと生意気に、余計なことをしても時間の無駄。このパターンを乱し、理解を困難にするだけです。 余計なことをするのは、自然を甘く見て、理解していない証拠。単なる農法ではなく、あくまでも相手は自然そのもの(全体)。行くところまで行ってから、考えて下さい。ものを言って下さい。 もう、いい加減に先人の轍を踏む(過去に基準をおく)のを止めて下さい。自分が自然農法症候群だと理解した時から、実質的な転換が始まります。例外(中南米の古代文明)を除き、過去何千?年と、自然に基準をおいた農法が理解され、行われなかったのは、意識の転換が起きなかったからです。誰も自然の仕組みが解らなかったからです。分かったような気になって、なめた真似をしないで下さい。 予防
何も知らない内に、最初から運良くここに辿り着くことは稀でしょう。シュタイナー(基本)や岡田茂吉(理念・原理)、島本覚也(技術)なども理解できないでしょう(過去、理解した者は誰もいない)。 また、皮肉なことに中味はどうあれ自然風が「真の自然農法を広める重要な役割を果たしている」ことに変わりありません(広報:福岡正信)。これらを否定するようでも、やはり重症です。 先ずは、このホームページを20回以上読む^-^。人は早く結論を出し、安心したがります。しかし、簡単に納得したり信用しない(特に数値が危ない)。矛盾がないか徹底的に調べる。 とにかく何でも疑い、疑問を持ち、安易に答えを出さない。自分で結論を出さず、虫や菌、作物(自然)に聞く。そして、分からなければ放置(保留)する。何でも放置。ウツ同様、頑張っては逆効果。
特に数値が危ない:
農業生産、流通現場で、かなり普及していると思われる、簡易な硝酸イオンメーターで、低い数値が出たら低品質?なんてこともあり得る。深さ2〜3m団粒化しても、「それだけではダメ」も同様。数値はある条件の下で、限られた情報を提供するに過ぎない。特に生きもの相手に数値を振り回すのは危険である。しかし、農業は人が生きるための食糧生産である以上、最終的な生産性(量)の数値に妥協は許されない。 治療
己の頭で、無益な妄想(脳作業)をする暇があるくらいなら、このホームページを200回以上読む。 そして、新しい者(先生)に片っ端から話す。ついでに、診断指標に照らし合わせ、他者の病態を知る。 他人のアラは、よく見える。だが、自分のことは分からないから、放っておけ。後は神様(潜在意識=内の自分)に任せよう。彼?(内の自分)が何とかしてくれます。そのとき世の中、自分のために回り始めます(^^)。 日本中、世界中走り回り、アゴが痛くなるまで喋りまくる、という荒療治法もありますが・・・。昔から言います。急がば回れと(笑)。 社会的障害あれもダメ、これもイヤと畑は無肥料、無農薬、しかし作物は貧弱で虫の餌。でも自分は、あれがイイ、これがイイと健康法や薬草、サプリメント漬け。まあ、個人の自由。好きにやればイイでしょう。はたまた、天然グッズやお祈りグッズに囲まれて、まやかしの精神的平安を得るのも、本人さえ満足なら、それもイイでしょう。心の調和に不要なものですが・・・まあ、勝手にやって下さい。 と言いたいところなんですが・・・。間接的に環境破壊に加担していては話は別。自然風慣行農法は、良いと「信じて」首つりの足を引っ張っるようなもの。一般的な慣行農法より始末が悪いのです。 そもそも、農業は信仰の対象ではありません。信じても始まりません。たとえ、趣味・道楽であっても環境破壊を助長するようでは反社会的行為であり、障害と言わざるを得ないのです。 今まで、ゴミとして貴重なエネルギーを使い、処分されていた物(未利用の有機物=生ゴミや木質系ゴミ、家畜糞尿など)や、大型機械の未使用、大面積単一栽培の不可能視などの無駄。逆にエネルギー負荷の大きな、肥料、農薬の大量使用や希少・高価な資材使用の無駄。有機(自然)、慣行栽培共に、使い方、やり方が不適切で環境破壊に繋がったり、生産性を犠牲にしたりして、多くの無駄があります。遺伝子組み換えも同様です。
機械:
自然はマクロ(宇宙)からミクロ(原子・分子レベル、化学反応など)まで、全てが機械仕掛け。物理法則で動くのがその証拠(反する時は「あちら」の仕組みが働いている)。人工的な機械は、その応用に過ぎない。人の作った機械など、本物(自然)の機械から比べれば、まだまだ幼稚。 肥料、農薬の大量使用: 遺伝子組み換え: バイオマスが大きい肥沃な土ほど肥料は効く。作物が健康なほど農薬も効く。環境が良いほど遺伝子組み換えの効果が発揮される。当然のこと必要度は落ちるが、使いこなす知識と技術があれば、使っても何の問題も起きない。 持続型農業=真の自然農法は、何かを否定することではなく、これらの無駄をなくすことです。活用(逆用)できることを、やらないこと自体が「未然に防げる危機を傍観する行為」。知らなければまだしも、知った上で「己の拘り」から拒否すれば、社会的(道義的)犯罪行為と言えるでしょう。知った以上、喋らなければ犯罪者です(笑)。
己の拘り:
究極が「正義=人の義」。殺し合いの「源」。これを捨てるだけで戦争はなくなるが、祈りや願いではなくならない。何かを求めても自然の仕組み=法則は変わりはしない。不変且つ普遍だからこそ法則。天然、人工、何れも無償の太陽エネルギーが元。人以外は、無償が当たり前。人も無償のものを、無償で使えるようにならない限り動物以下である。これを奪い合い権利を主張するのは「己の拘り=個の保全」の優先。「人」以外の動物は「種の保全」が優先する。正義を主張せず、祈りも願いもしない?彼らは、基本的に同族同士の殺し合いはしない。個から種(己から全)へ。人からヒトへ。脳から心(全意識=表面意識と潜在意識)へ。これは後退(退化)ではない。高度に分化した意識(人)であっても、基点は未分化な意識(ヒト)におく。これが意識の地動説化=キリスト化(イエスの意識の象徴は魚)。本当の原点回帰(自然回帰)。 犯罪行為: 遺棄罪(狭義)= 老年、幼年、身体障害者又は疾病のために扶助を必要とする者を遺棄した者は、一年以下の懲役に処する(217条)。 復帰奪い合い、殺し合い(戦争)の基には、「生=食=農」があります。生きる基となる農業は、食だけでなく生存環境をも保全しなければならない産業です。環境面でも、食の質、量の面でも自己満足では済まされません。その、農業には「大地と空気と太陽と水」さらにエネルギーも必要。大地の奪い合いは第二次世界大戦で終わり、今はエネルギー。それもやがて、奪い合う物(資源)がなくなれば終わります。 植物は効率よく、太陽エネルギーを使えるように進化しています。それを育てる農業は、基本的に奪い合いとは無縁の筈。ただ、地球が受けとる単位期間当たりのエネルギー量は一定で、現時点での生産性も決まっています。そのため植物の特性を活かし、地球全体の太陽エネルギーの変換・利用効率を上げるしかないのです。
現時点での生産性:
現代人の生活を維持するには、地球が1.5個分必要という試算を環境保護団体・世界自然保護基金(WWF)などが発表した。 作物や化石燃料など人間が消費した資源の量を地球の面積に換算する独自の指標を用いており、「地球1個以上」の消費は、将来の世代が使う資源まで食いつぶしていることを意味する。このまま消費が増え続けると、2030年には、地球2個分の資源が必要になるという。(2010年10月18日 読売新聞) 独自の指標: エコロジカル・フットプリント=不完全ではあるが、地球の環境容量を表す指標 = 人間活動が環境に与える負荷を、資源の再生産および廃棄物の浄化に必要な面積として示した数値。 効率化して先ずは、食糧の量の確保が先決。今のところ全体量は辛うじて足りてはいますが、現実には偏り、質も伴わず、栄養過多・不足・失調。更に飢餓・餓死。偏りは社会的、政治的要因に帰する問題とも言えますが、人口増から(2011年:推定70億人)、絶対量が不足するのは時間の問題。それらも含めて、全ての人々に質も量も、そして生きる環境、機会も。同時に満たせる農業(社会・文化)形態でなければ本物ではありません。 具体的には、「無駄になっている物の持っているエネルギー」を、できるだけ放置・消耗させず、余計なエネルギーを使わず(非堆肥化など)、必要なところに的確に使います。すると、作物は気候や土壌に対する適応力が高まり、栽培適期や適作地域の巾も広がり、栽培回数が増え生産性も高まります。 これは、資材と農耕地の効率的な活用。環境に対しての負荷エネルギー分を、保全・修復エネルギーへ転換することを意味し、マイナスが大きいものほど、プラスも大きくなります。 要するに、その辺にある廃棄物扱いされている物を、そのまま畑に極浅く混ぜるだけ。自然の循環の中で、有機物が土に還って行く過程を、人が少しだけ手を加え、円滑化することによって最小限の工程にする。ただそれだけで良いのです。 ただ、未利用資源は一見、無駄なように見えても維持・保全に必要な部分もあり、何処までが未利用なのかを見極めて使わないと逆効果になります(稲ワラがその好例)。 そして、努力や無理はいけません。必要ありません。このページの写真や動画のようになれば誰だって、「農業がこんなに楽で、楽しいものとは知らなかった。面白くて寝ている時間が勿体ない」と言うでしょう。それが本来の農業、元(基本)に戻るだけなのです。
努力や無理:
「苦」があるから「楽」があるわけではない。苦は楽の影。満遍なく光が当たれば影はできない。幸・不幸。善・悪。喜び・悲しみ。なども皆同じ原理。これを古くから6真・4善・2美と呼んでいる。4単純・2明快・6矛盾なし=基準である。基準を守れば影(事故=不調和な現象)は消える。 頭と体とフトコロ現実(就農人口の減少、老齢化)に即し、徹底的に機械・ロボット化、効率化。分かってもいない未来を、分かったつもりにならない=自分を誤魔化さない。処分に困っている物(タダ)を使う=処分から活用へ。体にも心にも、そしてフトコロにも不要な負荷をかけないことです。単純作業(餌やり)など機械に任せ、頭脳を持った人のやることではありません。趣味ならいざ知らず、今時、我慢や努力、額に汗して、なんて流行りません。旧態依然では若者は敬遠、老人には無理。当然のこと、大規模化やグループ化、企業化、他業種からの参入も必要です。 脳の機能は情報処理、脳(ハード)に心(ソフト)はありません。考える(思う)のは脳とは別、心(意識)です。脳は、心(表面、潜在、両意識)が発信する情報や、自然(外界、肉体)からの情報処理をし、肉体をコントロールしたり、心に情報をフィードバックしています。 未来(心)で思い=因、今=果を、具現化(創造)。嘗て無かった新しい今を創るために頭と体を使います。言うまでもなく重要なのは「因」。これが、自然農法症候群では「果」だけを掻き集め、処理不能(頭でっかちで自然の理と照合できない)。あるいは、体だけを使い頭は空っぽ。あげくは、精神世界症候群(瞑想=迷走など)。これでは、使っていないのと同然です。
脳の機能は情報処理:
心は二組の意識グループに対し、決まった配分比でエネルギー(“数”と“色”、“方向性”は絶対的関係にある)を配分している。3肉体(下)・4本能(右)・5理性(後ろ)グループと、6智性(上)・7愛(左)・2感情(前)グループである。配分比は状況に応じ瞬時に変わり、前者345グループに、それぞれ30%配分すれば、後者672は各70%ずつ、90%なら10%。各グループ内は必ず等量ずつ。一方のグループが増えた分、他方が減る。これ以外の組み合わせ、配分法はない。また、例外も存在しない。 3体や4欲を働かせれば、6頭が働かない。つまり、一瞬でバカになるが本能で危険を回避する。その典型例が3肉と4欲が揃うセックス。更に、3肉体を使う労働やスポーツ。4欲望を満たすショッピング。更に、絵画や音楽演奏などの芸術行為。読経・写経・瞑想、ヨガ・座禅など各種の3肉体関連の修行。これらは全て、6頭が空になり本能的感覚やひらめきが鋭敏になり、エネルギー的に見て同質行為。芸術、修行と言えば聞こえは良いが、3肉4欲の圧力を抜く安全弁としての機能もある。この時、同時にブレーキ(5理性)が必要。4本能(右)という対応関係のためか、主に右脳が処理する。 逆の頭脳労働では、6智性・7愛・2感情が働き、この時 5ブレーキは要らない。7愛(左)で、主に左脳が処理。逆配分比の時々バカ(頭のリセット)が効果的なストレス解消法(ウツの運動療法なども同効果)。かように、自然(心)の仕組みには一厘の無駄も矛盾もみられない。 実際に転換すると、初めてのことばかり。今まで想像もしなかったことが次々と起こります。ここで原因探しではなく、犯人捜しをしないこと。過去の結果(証拠)だけを頼りに、処理(犯人捜し)しても無意味。基点が過去(意識が天動説)では、土は変わりません。たとえ何をしようと、どれほど時間が経過していようと、実質的には転換していません。 ここで厄介なことは、意識のエネルギー配分の関係上、本質を見通す 9洞察力を働かせようとすると 6思考力が落ちます。逆に、6思考力(サル知恵)を働かせ、2過去の結果だけを頼りに処理すると、9洞察力が落ち本質を見失います。 思考力(知)も洞察力(智)も落とさないコツは時々、頭も体も働かせず、ボーとしていること(バランスをとる)。一生懸命は最大の障害(どちらか一方に傾く)。瞑想など論外(本能側に傾く)。土と心は空(から)にしてはいけません。満たすのです。
9洞察力: 9は仏教で「心眼」と呼ばれている。ものごとの本質を 4本能的に 9見通すエネルギー。4と9は補い合う関係にあり、ほぼ同じ働きをする。 瞑想など論外: むやみに自己流でやらない。危険=いわゆる禅病を伴うことがある。唯一の治療法に白隠禅師の軟蘇の法があるが不完全。“光”(心のエネルギー)のことを知っている者以外、回避法、治療法は誰も知らない。 天の智=未来(因)に基点を置けば、人の知=過去(果)に囚われず、栽培形態や栽培種の多様化も自由自在。誰でも何処でもでき、資本経済下でも寡占化、種苗の独占(主要品目は既に終わっている?)、除草剤耐性作物、ターミネーター種子問題なども回避できます[ビル・ゲイツが進める現代版「ノアの方舟建設計画」とは]。 そもそも農産物は、食べる量が決まっています。他の工業製品のように大量生産し、押しつけようとしても必要以上に消費されず、単に資本投下さえすれば何とかなるというものではありません。 本来の農業による農産物は、全ての段階(生産、流通、消費)で、最小限の経費で済みます。ゴテゴテ余計な、付加価値やブランド化・差別化も不要。もし、必要とすれば何処かがおかしい。人間社会の内面的な単一、一様化が余計なものを必要としています。生物に限らず、多様化は「生」。一様化は「死」につながります。
内面的な単一、一様化:
意識、物質世界の仕組みの関係上、心の世界と現実世界は、全てが裏返し(実像と虚像の関係)にある。例えば、心(非物質)の貧困化が経済(物質)的豊かさを求め、心の自由・個性の喪失により、現実面で個我・自由を渇望。人心の孤立化は、経済や文化面のグローバル化として表出。これらは正・負、良し悪しの問題にあらず基点の問題。どちらが基点か理解しないと対処を間違える。 あちら(神さま)の世界は驚くほど単純。あちらとこちらは表裏一体、こちらを変えればあちらも変わる(フィードバック)。こちらの多様化は、あちら(心)の安定一様化=平安(調和)に繋がる。自然界の生物多様性は、見えない世界(地下)の単一・一様化(微生物叢の弱体化)の現れ。 本物は、素っぴんのまま「本来の質=“いのち”を生かすもの」小細工なし。当然、安いのが当たり前。それじゃ儲からない?。心配ご無用。食文化(自分)を大切にし他人の欲しがる物ではなく、それぞれ自分の欲しいもの、必要なものを作るだけで良いのです(結果的に多様化)。 発展途上国の食糧問題は、今まで無施肥の技術が確立されておらず、これができなかったことが主因です。一人ひとりが自分自身を良くすることだけを考え、他人のことなんか放っておけば、皆が良くなる道理。余計なことを、するから“おかしく”なるのです。 儲かります。但し、早い者勝ち。現時点(資本経済下)では儲けなければ話になり(を聞いてくれ)ません。農が変われば、それに付随する経済の仕組み=「場」自体も進化し、変わります。人に多少なりとも智恵があるのなら、何時までも資本・貨幣経済(儲かる=善、儲からない=悪)でもないでしょう。 歴史が証明しているように、過去側を拠り所とした基準は、場の変化と共に変わります。それは人の法であり、天の法(則)ではないからです。儲かりさえすれば、という場から本来の場(基準)に変えれば(戻せば)良いだけの話。 ようするに、肥料(死物=カネ)を止め、腐らない資材(必要十分かつ過剰ではない物資、知識、技術など)を使い、ピラミッドの底辺の生き物(一人ひとり)を生かす土壌(社会)改良。勿論、餌を撒いたら5cm混ぜます。混ぜるためには当然、機材や人材、時にはトラクター=機動力=軍隊(戦争に使ったのでは勿体ない)も必要。無施肥(資本)になれば、結果的に無防除(戦争)です。
人の法:
戦時、兵士(人)が戦場で敵(人)を殺せば勲章もの、平時、通常の社会で同じことをすれば殺人罪で死刑もの。刑罰は人の理(防除防疫=殺し行為)。「凶悪犯、皆で殺れば怖くない」=裁判員制度(これも“らしい”の典型例)。 自然の理(生かす)に従い、マイナス作用をプラスに転換。栽(培、植)=育てる=生かす。裁判→栽判。衣→木=人→天。本来(天)は、活(生)かしてなんぼ。自然の理で捌(x裁)く(犯罪者に必要な生きる場を与えるための選り分け)。「害虫を活かす」と同じ。
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