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自然農法の理念と原理

辛辣なことも・・・。
お怒りごもっとも、でも自然(神様)が・・・。

 基礎知識  ■自然農法の理念と原理  自然農法症候群

先駆者と、その役割
5→4→2→6→・・・の流れ(バランス)を常に意識し、一つところに止まらない。これが日々の行動指針。経営、生産、品質などの管理サイクル・マネジメントもこれ。 5426は表面意識。古来より神仏、占星術などの精神世界に、色々なかたちで表現されている。
あお
6
智性
岡田茂吉
理念・原理
あか
2
感情
ルドルフ・シュタイナー
基点・捉え方
自然農法 島本覚也
技術・実践
きい
4
本能
福岡正信
広報・理法
みどり
5
理性
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定義と基準

 有機農法や自然農法というと何となく胡散臭さい。何か曖昧ですっきりしないという印象を受けるようです。もっともな話で、定義もその基準も明確に示されていません(あっても的外れ)。
的外れ: 有機農業の推進に関する法律 全文(2006-12-8)(ツルネンマルテイ公式サイト→有機農業→)
 (定義)第二条
この法律において「有機農業」とは、化学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと並びに遺伝子組換え技術を利用しないことを基本として、農業生産に由来する環境への負荷をできる限り低減した農業生産の方法を用いて行われる農業をいう。

施政者、生産者(実践者を含め)、消費者共に、本質的な違いを知らないからでしょう。多くは、根拠のない思い込みで有機農法・自然農法と称しているだけと思われます。生産物も、それを反映し玉石混淆です。

自然農法と言えども不自然です。そもそも自然に人が手を加えるから農法と言えるのであって、手付かずの自然で人の営みはできません。農法は農の業(技)、また、経済行為でもあり生産性や効率を追求するのは当然です。それを放棄すれば物好きの単なる趣味・道楽。  
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見かけは二義的
 では、いったい何をもって「自然」と冠することができるのでしょう。人の思い(拘り)は各人各様。人の数だけ、組織の数だけあり、時々の都合や時代背景、技術の進展などで変わります。
一般に自然農法の基準(不耕起、無化学肥料、無農薬、非遺伝子組み換え、無除草、種子の自家採取など)と言われる、見かけは二義的要因であり、必須ではありません。あくまでも、結果としてそのようになるのであって、方法(手段)ではないのです。

答えは、単純・明快『地動説』。つまり、相手(天=自然)に基点を置き、自然の側から全ての事象を捉え、その都合に合わせる。自然の仕組み=法(則性)は如何なる場合でもぶれることはありません(人が知る知らないは無関係)。“普遍かつ不変の基準”があってこその定義です。これで、もう惑わされることはないでしょう。  
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自然農法は一つ
 農法は農家の数だけあると言われるほど多様です。自然農法も例にもれず各人各様。捉え方もやっていることも違います。しかし、誰が何処で何をやっても自然に基準を置けば、見かけ(技術は多様)はどうあれ「自然農法は一つ」しかないことが分かります。

ですから「これこそが・・・」という“拘り”は、「私は自然農法を真に理解していません」というのと同じ。このサイトでは「炭素循環農法」「手抜き農法」「サラダ農法」などと呼んでいますが「自然農法とは・・・」の説明のし易さから単に、そう呼んでいるに過ぎません。

逆説的ですが、炭素循環農法などという「狭い枠に嵌められた」農法など、元もとないのです。あるのは「農業を通し自然の循環のなかで全ての生き物を生かす」ための真の有機的農業の共通した「捉え方とその応用技術」だけです。分かってくれば変な“拘り”は、“おかしい”と気付くでしょう。  
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農法の見分け方
 どんなに自然に似せようと「反自然であってはならない」。逆に、見た目はどうあれ「反自然でなければよい」のです。反自然とは、自然(宇宙)が、そして生き物が進化してきた方向・仕組みに逆らうこと。
その判定は人ではなく、自然、自らが下します。逆らっていれば、その結果はマイナス、合致していればプラスの作用(現象)となって現れます。ですから「結果良ければ全て良し」。

当然、見かけとは関係ありません。土を使うことを前提とした自然農法の範疇には入りませんが、ハイポニカ農法は、己(人=地)ではなく、相手(植物=自然=天)に基準を置いています。自然農法の対局に位置する人工農法であっても、恰好だけの似非自然農法などより、はるかに自然に則している一例です。

逆の(惑わされやすい)例はアイガモ農法。こちらは一見、自然にみえますが、人(の都合)に基準を置いた、立派な「施肥・施水・防除」の殺し農法の一種です。単に、農薬・除草剤替わりにアイガモを使っただけ、化学肥料を堆肥に替えて有機農法というのと同じです。
そのため、肥の害(食味低下)、カモ自身による食害(薬害に相当)、カモの処分(農薬の残留性に相当)、経費・手間の増加など、慣行農法と全く同じ障害が現れます。
また、玄米6000kg/ha(200羽)=30kg/1羽。これは日本国民一人当たり2羽のカモ鍋 ^^(米消費量61.4kg/人/年)。美味しい話ではありますが、あまり現実的とは言えません(日本人の畜産物摂取量は適正限度量を大きく超えている)。途上国でなら動物蛋白質の確保という意味合いもありますが、総合的にみれば米の生産性を上げ、効率的な家畜飼育を取り入れた方が得策というものです。
アイガモ(合鴨)農法: 野生のマガモとアヒルとの雑種。江戸時代頃から行われているという。
畜産物の供給量2005(1960年度対比): 食の欧米化により 4.1倍(肉類 5.3倍、牛乳及び乳製品 4.3倍、鶏卵 2.6倍)となり、蛋白質・脂質・炭水化物(PFC)の熱量比率が大きく変化、それに伴い生活習慣病が激増した。

同じカモでも交雑し囲い、カモ鍋にするのではなく、カモやガン、コウノトリなどが舞う環境の中で、彼らの判定に従えば、もうそれで立派な自然農法なのです。動物愛護はさておき、増えたら捕まえてカモ鍋 ・・・^ ^。あとは原理さえ理解すれば、地域に合う細部の技術は容易に見付けられます。
動物愛護: 生物界の頂点に立つ我々は、命と食の本質を知り、人として全ての生き物を如何に生かし、ヒトとして如何に食べるか。愛護運動の多くは、このことを理解しているとは思えない。  
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理念と原理

 自然農法の提唱者である、岡田茂吉は「私が神示によって知り得た唯心科学を以て説くつもりである」と述べています。つまり、自然が彼に語らせたのであり、彼自身が考えたものではありません。
また「私は自然農法の原理だけを、教えたので、技術面の方はみんなの方で工夫するということになったのです」とも言わせています。

【理念】 大自然を尊重し、その摂理を規範に順応する。
【原理】 生きている土の偉大な能力を発揮させる。

現在、自然農法の実践者でも、提唱者を知らない(別人を提唱者と思っている)者が増えています。まあ、それは良いとしても、彼らは当然、理念も原理も知りません。歴史的経緯から見て、指導的立場にある者が正確に伝えていないためと思われます。
尤も伝える本人が理解できていませんから伝えようがありません。核心がどこかに行ってしまい、自然農法という言葉だけがひとり歩き。多種多様な自然農法(自称)が生まれ、自らが作り出した概念に囚われ、がんじがらめになっているのが現状と言えるようです。  
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迷走する自然農法

 提唱者の説明は宗教色が強く、理念や原理を一般にも分かるように説いていないため、その後の実践者、指導者により色々に解釈され、技術的な肉付けがなされました。どのように解釈し発展させようと自由ですが、自然農法の疑念派から、最初に突きつけられる言葉。「自然農法では全人類を養えない」。これに「否」と答えられない限り、何を言っても説得力はありません。
現在、巷で行われている技術では、慣行の半分、良くて70、80%程度の収量と言われます。これでは「ごもっとも」と言わざるをえません。稀に、慣行並みの収量を上げていても、仕組み(原理)が分からないため、他者に正確に技術を伝えられず、誰でも何処でも、というわけにはいきません。

いずれにせよ、自然に逆らっている慣行農法以下の生産性で「省資源、省エネ、環境保全、自然にやさしく、愛情を持って、スローライフなど」と言っても虚ろに響くだけ。そんなことは自然農法でなくとも当たり前。免罪符ではありません。
農を業とし経済行為である以上、技術的欠陥を他者(消費者)に転嫁する口実としか聞こえません。ましてや、精神論・哲学を持ち出すなど、逃げ口上以外の何ものでもないでしょう。

低生産性は、自然の理に沿っていない証拠。「理念に従い原理を活かせば慣行農法と同等か、それ以上の収量が得られる」。「全世界の食料生産は私が責任を持つ」とまで提唱者は断言したのです。何者であれ自然農法を標榜する以上、責任を持ってもらいましょう(笑)。

提唱者は、「肥は毒なる」「肥料や糞尿は使うな」「堆肥もいらない」とは言いました。しかし「耕すな。何も入れるな。除草するな。」などとは言っていません。
ただ、周囲の抵抗(進駐軍による宗教弾圧の可能性)に抗しきれず、「堆肥だけは仕方がない」と言った「堆肥」が曲者。迷走の元(笑)。それでも「堆肥は未熟」と言っていますが、これだけでは原理の説明には不十分。正確に伝わらないのは当然と言えます。

その結果、天然物完熟堆肥やボカシ(微生物製剤)などに拘り耕起・防除する、慣行や有機(堆肥)農法まがいの集団。頑なに人為的な養分供給などの行為を拒み、無除草・不耕起に拘り、自然の物まねに徹する一団などを生み出しました。
何れも「怯え」から本質を見失い、見かけに固執。各種障害(病虫害、生理障害、天災など)から逃れようと「私は何もしていません。お見逃しを」というわけです。
自己中心の淡い期待からの「甘え」です。でも、自然は理により判定、情状酌量・斟酌なし。まことに事務的(笑)かつ非情。自然に対し、そんな甘えは通用しないのです。

これは両極ですが、自然農法の殆どは、このどちらかの影響下にあると思われます。彼らの長年の努力には敬意を表します。しかし「殺し農法」と同じように、防除・輪作や排除(残滓や病虫害作物の持ち出し)などをして、どこが自然?。自然の上っ面を真似ただけで、なにが農法?。なのでしょう?。提唱者の唱えたものと似て非なるもの。どこかが違う。なにかが変。

「大自然を尊重し」です。防除するなら慣行と何ら変わりません。また、人も大自然の一部。あれこれと枠をはめ、枷をかけることでもないのです。自然農法は自在。理に沿い、土の偉大な力を最大限、発揮させるためなら、何をしても何を使っても構わない、自由農法だということを理解していません。
農法である以上、不自然であっても反自然でなければ良いのです。ただし、ドラッグ(肥)と殺し(防除・排除・隔離)は理に反します。  
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自然農法の未来

 いずれにも属さず(宗教とも無関係)、過去の農法にも拘らず、独自に理念に忠実に原理を追求した結果、たどり着いたのが炭素循環農法です。また、ほぼ同じ無施肥の技術・理論が他にもみられます。一人の提唱者の教え(自然の仕組み)が出発点ですから、表現に多少の違いはあっても、原理的には同じと考えて差し支えありません。
ただ、早い者勝ち(笑)。先に名乗った方に命名権あり。何れ炭素循環農法が当たり前になれば、これが慣行農法。炭素循環農法の名前は用済みとなります。ところが、現実を見れば自然農法の普及は悲観的と言わざるを得ません。

では、自然農法に未来はないかと言えば、そうでもありません。自然、慣行を問わず農業は、自然の原理の応用。慣行農法からも独自に同じ方法に近づいたものも当然見られます。むしろ数からみれば圧倒的多数で、こちらの方が、はるかに希望が持てるでしょう。
現在の慣行農法が自然農法に近づいても、結果的には同じこと。それは減肥栽培です。有機物の有効活用により、限りなく減肥・減農薬。気が付けば限りなく炭素循環農法(笑)。自然の理は一つ、たどり着く先も一つです。農業が外(新概念)からも、内(旧概念)からも変わる「時が来た」ということです。

生産面では結果が全て。技術の伝達は理屈抜きでも勿論、可能。しかし、技術的には同じでも、その原理を詳細に説明できなければ、完成された農法とは言えないでしょう。理論の伴わない技術は、その応用において種々の問題が生じ伝達が円滑にできません。
今、農業に本当に必要なのは技ではなく理。誰でも何処でも最低限の技術で、永続的な農業が営めるようになるための、自然の仕組みの理解です。基礎知識があってこそ、更に技が光るというものです。  
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自然の仕組みに従うということは

 岡田茂吉の言葉に触発されはしましたが詳細は何も知らずに、直接自然に教わりながら探求した炭素循環農法の理論と技術は、氏の言葉と一致します。提唱者が示した、理念と原理が間違いない証です。
尤も、神示によろうが、直接作物や山の木々に教わろうが、自然の仕組みの応用ですから、誰が何処でやっても同じ結果でなければなりません。以下は岡田茂吉の言葉です。

 自然農法の根本は、土そのものを生かす事。地熱の精(土素)には霊(未発見)と体(窒素)がある。太陽から放射される精が火素、これにも霊(未発見)と体(光と熱)がある。月から放射される精は水素、体(水)霊(未発見)がある。この未発見である霊(土素、火素、水素)が一体となって生れたものが自然力(X)であり、万物の生命力の根原。この力(X)こそ無限の肥料。

人為的な肥料により作物は弱り害虫が発生。肥毒により作物が土の養分を吸う本来の機能を損なう。土は肥料の固まり。連作するほど土はその作物を育むように適応。本当は堆肥もいけないが例外として堆肥は土を固めず、温める、乾かないなどの効果あり。

自然農法に失敗はない。失敗は肥毒が残っているため。土に善し悪しはなく、無肥になれば年々良くなる。自然栽培は一般の種子でよく、種子の肥毒さえ抜けばよい。
水田は肥毒が流れるが、畑は肥毒が流れないため、畑の方が無肥の効果が顕著。除草は良いと思う時にすればよい。自然栽培は省力。技術はたいして重視する必要はなく、指導者の必要はない。

未発見とされている「土素、火素、水素」=“自然力X”は表現が少し違うが、シュタイナーが見ていたものと同じ“もの”(意識の世界の仕組み)です(宇宙の意識とでも言うのが適切か?)。

“もの”(意識の世界の仕組み): 両者の表現の違いは“言葉のない世界”(意識世界)を説明しているために起きる。岡田茂吉は無理矢理「この世界の言葉」に変換し、できない部分を“自然力X”と表現。
シュタイナー(いわゆる霊能力者)は意識世界で「見えるまま」を、あちらの言葉(“色”、“数”)で直接表現し、こちらでは行為として(調合材を使う、天の運行に合わせる)表現している。

「土そのものを生かす」「土は肥料の固まり」とは、自然農法の基本中の基本。「微生物活性化による養分供給力・浄化力=土壌バイオマス=慣行農法で言うところの地力窒素。これが「精と体」の一方の「体」。両者で、土(狭義の自然)の意識と肉体というわけです。
ただ、「精=“自然力X”」を強調するあまり「土を生かす」実際面をなおざりにしている、きらいがあります。たとえ、何であれ(慣行農法などでも)例外などというものは一切ありません。この(物質)宇宙や、それ以前の非物質世界(意識世界、未来)全てを構成する“力”を岡田茂吉は“自然力X”と呼んだのです。

“自然力X”: 分からないから神秘(X)なのであって、理論が確立された今、ことさら特別(神秘)視するほどのことではない。物質面に現れてくる事象の全ては“自然力X”が働いた結果。

シュタイナーのように“自然力X”をそれなりに活かすことはできます。しかし、「土そのものを生かす」ことができなければ“自然力X”はプラスとなって現れません。マイナス現象であっても“自然力X”の結果なのです。
霊能力などを持たない凡人には、“自然力X”を直接コントロールすることはできません。実際の栽培では無視して構いません。いや、凡人は無視して下さい。岡田が「唯心科学」といっているように、広い意味での科学的理解・説明のために必要になるだけです。昔から知られている、場所に応した生命活動の生理的特性などを考慮するだけで十分でしょう。

あとは、ただゝ、全ての生き物を生かすことだけを考えれば良いのです。それが最良の結果を得る唯一の方法であり、進化の頂点にいる人間の責務です。全てを生かすには、生きる「場」である「土そのものを生かす」ことから始めなければなりません。
慣行農法流に言えば「地力窒素(養分)だけで育てる」のが自然農法。施肥は土を汚染し、発生する毒など(土壌物理性・環境劣化 → 有害センチュウ・腐敗型微生物相 → 無機態窒素・腐敗成分・養分吸収阻害物質等の生成)により地力が低下します。
 養分吸収阻害物質:
腐敗分解過程で生成され作物の養分吸収を阻害、窒素飢餓や微量要素欠乏症を誘発する原因物質。

自然農法は土壌改良だけによる、地力(土の偉大な能力)の向上が唯一の手段(技術)。この地力は常に変化しているため、時系列で捉えなければ判断できません(瞬間の状態を捉える土壌分析は無意味)。
分かってしまえば簡単すぎて、技術と言えるほどのものではなく、指導者もいらないのは当然。ただ、理念や原理を裏付ける理論が欠如していた故に迷走。この自然農法の核心を正確に伝えることは絶対に必要です。  
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自然農法は引き算

 肥効成分を何らかのかたちで土に加える「足し算農法」が慣行的・施肥農法。反対に汚染源である肥効成分を引くのが自然農法です。
「引き算農法」は誰しもが日常経験し、よく知っている自然現象の応用。物は濃い方から薄い方へ(生命現象は逆)、高い方から低い方へ流れるという原理ゆえに、生育環境は引き算でなければならないのです。
あくまでも原理の応用であり、清貧に甘んじようとする過去の精神的?自然農法(断食農法)と混同してはいけません。積極的に養分的・真空状態を作り吸引するのです。

施肥農法のように人が足せば自然が引きます。引かれれば更に足すことになり、生産性を上げようと足し過ぎるから溢れ出すのです。そして結果的には、施肥や防除に伴う環境汚染や自然破壊などの現象として引かれるため、真の生産性も落ちます。
虫の餌をいくら穫ってみても、所詮それは虫の餌。人の食物を得たことにはなりません。逆に人が引けば自然が足します。引けば引くほど、自然は足してきますから生産性は上がります。

要は、生き物的には密、物的には空(から)の状態をどのように作るかです。引き算農法と言えども、何らかのかたちで資材(最低限でも雑草や作物の根部などの有機物)が入ります。これは、引くために必要なエネルギーであり、足しているのではありません。

高炭素資材は微生物を養い、遊離窒素や燐を固定。それらを土から引きます。米糠や木酢液(微生物の微量養分)、ミネラル類などは、その微生物を活性化するためのものです。
微生物相そのものが貧弱(腐敗菌優勢)であれば微生物資材なども必要で、EM菌はドブ掃除専門。引くものは腐敗生成物です(それ以外には役に立たない)。エネルギー源以外は目的を果たせば、それ以上使用する意味はありません。

また、必要なものであっても何を引くためなのか明確にせず、むやみに使ってはなりません。当然のことながら、使い方や時期、量は、足し算農法と違います。糠・粕類などの肥効を発現しやすい物は特に要注意。調味料程度の使い方で十分です。同じ資材でも量やタイミング次第で、足し算となりマイナスの結果が現れます。  
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引かれるものは何もない(儲からなければ自然農法ではない)

 自然農法では、微生物の力を借り積極的に引き算をします。しかし、システムに逆らったり、余計なものを加えたりしない限り、自然は足しこそすれ引くことはありません。自然は生かすためのシステムなのですから。

生命現象では、物が低濃度側(生息環境)から高濃度側(生物)へという流れ方(摂食・吸収・固定など)をします(収斂作用)。土壌微生物や植物の生息・生育環境中の養分濃度の方が低くて当たり前。自然なのです。
無施肥で、微生物のエネルギー源として炭素資材を多少使っても、投入窒素量は作物の窒素吸収量の10%前後でしかありません。

ところが、高→低という物(死物)の流れしか見ない慣行的殺し農法では、循環・収斂作用(高→低の流れ)は考えません。作物の窒素吸収量より土壌環境中の方を高くし、吸収量の130%前後(平均的施肥量)にもなっています。硝酸(窒素)による環境汚染から、これを100%にまで減らそうとの指導が行われてはいますが・・・。

その結果、高硝酸塩・腐敗風味農産物、環境汚染・破壊など、何らかの犠牲(マイナス要素)を強いられます。要するに、生物の生存に必要なもの、簡潔に言えば命との引き替えです。殺しの代償として命をもって償っているわけです。100%に減らしたからといって、余計な物を足していることには変わりなく、やはり引かれます。
環境汚染・破壊は論外としても、従来の全ての農法と比較して生産性を犠牲にしたり、経費・労力を余計に要したり、防除が必要(虫や菌による処分の対象)であれば引かれている証拠です。

宇宙(自然界)を構成する個々のものが、全体としては常にプラス方向に進化発展してきたことをみれば明らかなように、生物界全体(その社会も含め)の生産性収支は、自然の理に沿う限りプラスになるようにできています。もし、マイナスになるようであれば、何処かに矛盾(反自然)があり一見、自然に見えても再検討が必要です。
早い話が儲からなければ自然農法ではない。真の有機農法は楽して儲かるもの、一般で有機農法と呼ばれ、各国政府が奨励しているのは“まがいもの”です。  
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神様の意地悪(誰がやっても自然農)

 元大本教信者であった、岡田茂吉は天(神)の啓示により「自然農法」の理念と原理を知ったと述べています。島本覚也は、出口王仁三郎(二代目大本教教祖)の指示で酵素を研究、後に高炭素資材を微生物の餌に最大限活用する「微生物農法」を創始します。やはり、彼も天の啓示と語っています。つまり自然の代弁者です。ところが面白いことに、両者とも農業者ではありません。
前者は自然農法の「理念と原理」。後者(自然農法とは無関係と思われているようだが)は、その「技術」を天から授かりました。そのためか、一方は技術が伴わず宗教的に、もう一方は、高い生産性を誇りますが「肥」の概念から抜けきることができていません。

天が二人に分けて授けたため、少々ややこしいことに。それを更にややこしくしたのが、何も授からなかった?福岡正信です。自身の体験と思考から、農を哲学(自然農)にまで押し上げて(追いやって ^^ )しまいました。泥(哲学)団子は条件(各人)次第で出る芽が違います(解釈の自由度が高い)。その分、精神的な満足感も得られやすく一般受けします。
前二者とは対照的で自分自身が農業者です。しかし、原理や技術など実効・実利面では、何も見るべきものはなく「自然農法=猿真似」と人々に信じ込ませた張本人。でも、自然農法の名を世に知ら示した啓蒙者としては最大の功労者(現在では教祖的存在)です。彼なくして自然農法の歴史は語れません。
哲学(あくまでも私的定義 ^^; ):
人(地)中心の典型的な天動説思考体系。自然農法とは相容れない自然から最も遠いもの。明らかな答えなど出してはいけない奥ゆかしい学問。自然農法は小学生の算数並、哲学など無用の長物。
福岡正信:
曰く、「この世の歓びも幸せも、すべての物も人間が探求する方向にはなく、もとの道、自然の中に完備していたのであり、人間の希求する健全な肉体、自由な心、豊かな物など一切は人間の手中に自ずから存在していたのである。それに気づかず、人智に驕って、自然のふところから逸脱したときからすべてを見失い、それらの幻影を求めて狂奔するようになったにすぎない」。曰く、「自然は解らない」。

日本ではこの三師が自然農法の代表的な先駆者でしょう(それぞれ原理、技術、広報担当)。それ以前に、ルドルフ・シュタイナーがバイオダイナミック農法を説き「基点と捉え方」を示しています。彼もまた、農業者ではありません(霊能者=心の世界をカンニングしている違反者であり、神秘思想家・人智学の創始者)。
しかし、これらのことは“アヒル殺し”の農法の実際を先に知り、関係ありそうだと後から調べている内に分かってきたこと(“アヒル殺し”はシュタイナーや島本覚也、福岡正信の存在すら知らない)。
偉大な先駆者達が部分的に得たものを、プロの農業者としての日々の生産活動を通し、一まとめに得たのが炭素循環農法だと言えます。そのため、巷の自然農法(人の頭が作り出したバラバラの既成概念)とは全く関係ありません。でも、分かってみれば何のことはない、真の自然農法以外の何ものでもなかったのです。

神様が一人に全てを授けなかった理由が、何となく分かるような気がします。入り口はどこからでも構いません。誰でも、普段の生活・営農活動の中から、当たり前のことに気付く。ただ、それだけでよいのです。
実際には何も知らずに、自然農法の原理に則り営農している者は、かなりの数になるものと思われます。その証拠の一例を上げれば通常の施肥栽培では、絶対に得られない低硝酸の農産物(原理を知って言えること)が、普通の市場に入荷されているという事実です。自然農法は、ことさら特別なものではありません。  
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指導者はいない(新しい者が先生)

 土や作物は「作る」ものではなく「できる」もの。バランスは「取る」ものではなく「取れる」もの、自然の側が決めます。ですから、人ではなく相手(自然=仕組み=法則性)が指導者(基準)です。
差別化、ブランド化も同様。こちら(生産者)が「する」ものではなく、あちら(販売・消費者)に「される」もの。それには「される」だけの要件を満たさなければなりません。
土・作物・虫・微生物などや、消費者・自然農法を知らない者・新しい者(後輩)・より若い者が実際に教えてくれる先生となります。

基点(視点)の逆転(過去側→未来側=既に知識がある者→これから知識を得る者)により、当然、上下関係も逆転。「自分は誰の言うことも聞かない。誰からも教わらない」これが本物(自然農法の本質を理解した者)の言葉です。
だからといって、別段難しいことではなく実践すれば、伝えさえすれば、“あちら”(自然=下位者)から教えてもらえる仕組みになっています。もちろん、“あちら”が代価を求めることはありません。伝えるのも当然、無償でなければなりません(必要経費を除く)。

自然農法の先輩(実践者など)から教わることは何もありません。先に知った者は、それを伝えるだけで何一つ教えることができないのです。自然農法の創始者(岡田茂吉)は、自然農法に指導者は「要らない」と言いましたが、正確には「できない」。指導しては「いけない」です。
先輩からも貰えますが、それは「問い」。これも逆転し、何らかの「答え」を出すと、後からその「問い」が分かります。人が指導しようとした途端、自然農法ではなくなります。人から教わろうとしたその瞬間、学ぶことを放棄したのです。視点=基点=教えが、自然の側(天)ではなく、人(地)=己の側(既成概念)になってしまうからです。

故に、先導者(煽動者?^^;)=出題者はいても、指導者はいません。師弟関係も存在しません。あるのは無条件で子を育む、親子のような関係でしょうか。これも本物を見分ける重要なポイントです。
指導者がいたら“おかしい”と断定して構いません。巷の自然農法の指導者然とした者の教えや、そのグループが似非自然農法になってしまうのも、自然農法自体が未だに、あまり知られていないのも同じ理由でしょう。

人(先輩)の言葉ではない、自然農法の実践現場や生産物からは、直接教わることができます。栽培・飼育記録などの“生の”データは生き物の“ことば”。たとえ他人のデータでも貴重な自然の教えです。ただし人知・感情を捨て、あら探し、疑う姿勢を忘れないように。
言うまでもありませんが作物に対する基礎的な知識(性質や生理作用、応用技術など)は、一般的農法と同じように、先輩や書籍その道の指導者などから教わることができます。また単に、理論面だけなら既成概念同様、教えることも教えられることも可能です(このhpのように)。  
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精神論は逆走の元(拘り障害)

 自然の有り様(ありよう)を基準にするのが自然農法です。しかし、その自然自体が物理空間という鏡に、映し出された虚像。実像=“実体”は見えない世界(意識世界)に存在します。
啓示の発信元でもあり、岡田茂吉や島本覚也が理念・原理や技術を授かることができたのも、“もと”が「在る」からに他なりません。この関係が混乱を招いています。
 “実体”:
全て(物質、非物質に限らず)を構成している“もの”。その“もの(光の珠)”を誰でも“みる”ことができる。見え方は次第に変化し最終的に、王冠のチャクラ(サハスラーラ)と呼ばれる“光の輪”となる。

実際面で、このようなことは知らなくても特に支障ありません。ただ「認識できないことは存在しない」と否定したら「おわり」。囚われるのは否定するより更に困りもの。
  1. 人(表面意識) → 事象・・・[慣行農法]。
    人の考えを基準に事象を捉え、人の都合に合わせて対抗策をとる。
  2. 人(表面意識) ← 事象・・・[自然農法]。
    事象をあるがままに受け入れ、起因や因果関係を基に「生き物を生かしている仕組み」を円滑化するための対応策を講ずる。
  3. 人(表面意識) ← 事象 ← 意識世界(実在世界)・・・[精神農法?]。
    代表的なものがシュタイナーのバイオダイナミック農法。
    意識世界=言葉のない世界(未来、潜在意識もこの世界に属す)との関わりは、表現が多様・複雑・難解化する。
 事象 ← 意識世界(実在世界):
同じ種を同じように蒔いても常に発芽率が良い者がいる「種が蒔き手を選ぶ?」「種に好かれている?」などという現象が昔から知られている。無条件で動物が「言うことを聞く、好かれる」なども同じ。
 言葉:
物質に限らず科学、文学・芸術や言語、文化なども、言葉(虚像)の世界に属している。言葉を超えたところ(実像の世界)の“ことば”の応用がバイオダイナミック農法の調合材。
「自然という二文字を頭に冠したものは実体の存在に気付いたとき、本当の理解が始まった」と言ってよいとは思います。しかし、誰でも見える世界と、“みえる”(分かる)者だけに、“みえる”世界を、ごちゃ混ぜに語るのは危険。農法としては 2. で十分。3. は分かる者だけのものと言ってよいでしょう。
自然の仕組みに沿う → 省力・省エネ・省資源 → 環境負荷軽減(浄化・保全) → 生産性向上 → 生活の向上(質、量とも) → 精神的向上・満足 → 自然に感謝。
これが自然の摂理に従うということ。従った結果現れる一連の現象。しかし、
自然に感謝しろ → 我慢し精神的向上をはかれ → スローライフ・スローフードに徹しろ → 低生産に甘んじなければならない → 自然を大切にしろ → 資源の無駄遣いをやめろ → 自然の仕組みを壊すな。
というのが一般的。でも、これ逆走なんです。いたるところで見られる因果取り違え現象結果(事象)を「自然と調和し生きる方法」なのだと思い違している典型例です。
精神論による混乱は、無意識の内に“実体”の存在に、気付いたゆえの歓迎すべき現象?。でも意識世界の知識を、無理矢理こちらの世界の言葉に変換したものを、“みえない”者が安易に使うのは考えものです。天動説に嵌ります。

この世は、あくまでも物質世界。農業は「生きている」「物」を扱う仕事。精神面の偏重は意識の硬直化(精神世界病?)を招き、実際の栽培・技術面にも障害となって表れます。「拘り障害=自然農法症候群」とでも呼べば良いのでしょうか(笑)。施肥障害並みの重大な障害で、施肥農法と同様な結果をもたらします。
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